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私の父親はバーテンダーでした。

1969年創業、大阪市北区のホテルプラザのメインバーで働いていました。

私が小さいときにホテルに遊びに行くと、かっこよく働く父がそこにはいました。私が20歳になって、初めてホテルのバーに行くとき緊張していましたが父がファジーネーブルというカクテルを作ってくれました。とても美味しくて、その甘酸っぱい味は今でも覚えています(笑)

しかし、ホテルプラザは1999年3月31にで閉業してしまいました。その時の父の顔はすごく寂しそうな顔をしていました。

それから、父はホテルプラザの近くにあるシンフォニーホール内の喫茶、BARコーナーで仕事をします。忙しい時期は私もバイトさせてもらいました。父と一緒に働くのはこれで最初で最後になるのですが、今となってはすごくいい経験となっています。シンフォニーホールでの営業時間はイベントがある時の、開始1時間前と休憩時間の20分だけです。座席数は1704席、開始1時間前の時はそれほど忙しくはないのですが、休憩の20分に満員が1704名の約半分のお客様が殺到します!コーヒーやワインならある程度準備しているのですが、12月の渡辺貞夫ジャズコンサートのイベントでは、「シャンパン、カクテル」などの注文が殺到します!20分の休憩時間ですが、15分経つとアナウンスで「開始5分前ですのでお席にお戻りください」というのが流れます。そうするとお客様は帰ってしまいます。すると父は私に「売上じゃなく並んで頂いて最後の1人まで提供するのがプロや、お前はド素人もっと努力して練習しろ」と言われました。

それから1年、自分なりに練習して同じく渡辺貞夫ジャズコンサートの日がやってきました!そして休憩時間が始まりました!あっという間に500人以上の列ができました!私はシャンパンを父はカクテルを作りまくりました!そして最後の1人にお酒を提供した瞬間に「開始5分前です」のアナウンスが流れ、私と父は小さくガッツポーズをしました。その日の売り上げはBARコーナーだけで47万円ありました!1杯800円のカクテル、1杯1000円のシャンパンを15分で47万円は驚異的な数字です(笑)

それから、私は不動産の仕事に就き、父とは別の道に。

ある時父から電話があり、少し話がしたいと言ってきました。「今日なら大丈夫やで」いうと「じゃあ今晩、飯でも行こう」となりました。父が「なんか調子悪いから病院に行ったら、舌癌やってん」と言ってきました!びっくりしましたが「治らん事ないんやろ?」と言うと、「多分大丈夫や!」と笑いました!その時に私が父の似顔絵としんどくてもまけたらあかん!と書いた紙を渡しました。父は「なんや全然似てへんし」と言って笑ってました!

それから少し経ち、父と会うとかなり痩せていて、しゃべるのもしんどそうでした。そのあと父とBARに行き、お互いの近況の話をしました。すると父がバーテンダーに「1杯カクテル作ってもいいかな?」といいました!バーテンダーは「どうぞ自由に作ってください」とすごく優しい方でした。父は僕にカクテルを作ってくれました。なんと、ファジーネーブルでした!覚えててくれたんやと嬉しくなりました(笑)私が、「じゃあ親父もう1杯いいかな?」というと次はショートカクテルを作ってくれました!父は「X-Y-Zです。どうぞ」といい出してくれました!X-Y-Zというカクテルは「最高の」や「究極の」カクテルというのとは別の意味もあります。それは「最後に、、、」

2週間後、父は旅立ちました!

父が亡くなってから遺品整理をしていると、財布の中から1枚の紙が出てきました。あの時、僕が書いた似顔絵です!裏には「基和ありがとう!」と書いてありました(´;ω;`)ウッ…

そんな父が亡くなってから明日は12回目の命日です。

「親父また飲もうな!」

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